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君はいい子

君はいい子 -虐待としつけ、そして医療-

1 育てにくい子ども

自分の息子が、「育てにくい子ども」だと感じたのはいつの頃だったろうか。
 子育ての比較をした事はないので何とも言えないが、私の息子はかなり育てにくいタイプではないか(だったのではないか)と思う。
心臓病の時期も育てにくかったが、成長してからは別の育てにくさが現れた。

 どう育てにくいのかと説明しようと思っても、うまくいかない。
出かけた時に、ちょっと目を離すといなくなってしまう。「親の後をついて歩く」ということをしない。
興味がひかれる物があると、そこで止まってしまう。ささやかな子どもらしい行動に見えるかもしれないけれど、例えば買い物に出た時など、「ゆっくり品物選びをしたいのにできない」「早く帰りたいのにできない」ということが多かった。
 また、小さなこと(と、私には見えること)で息子の気に入らないことがあると、息子は固まった。
例えばレストランで熱い料理が出てきたとき、息子が「自分が取り分けたい」と言ったとする。「熱いからダメよ」と、私が言って取り分けると、息子は固まる。下を向いて黙ったまま、石のようになってしまう。なだめても、代替案をだしても、一度固まるとなかなか元には戻らない。
このようなことは、息子と私の2人でいる時なら、なんとか我慢をすることもできた。しかし、友達など第三者がそばにいる時には非常に困った。息子が固まると、次の行動ができなくなる。私はだんだん他の人と一緒の時に息子を連れて歩くのをいやがるようになった。
(といっても我が家は母一人息子一人の家族なため、息子を連れて歩かない=私も外出しない なのだが)
 
 言って聞かせても息子には理解できない事が多い。知恵づきの部分は問題がないので、こちらが馬鹿にされているような気分になる。「ワガママ」「しつけが悪い」と思われているのではないかと、それも私を追い詰めた。

毎日のように息子に腹を立て、怒鳴っていたのではないだろうか。

 怒り始めるまでには、段階がある。
言って聞かせる→繰り返す→更に強く言う→繰り返す→言い聞かせ方がだんだん激しくなる→繰り返す→怒鳴る、叩く、時に蹴る。
 子どもが怯えた泣き声を上げて、やっと収まる事もあるし、泣き声が気に障って更に怒鳴り散らす事もあった。
「なんで分からないの?馬鹿だから?」などと、言葉で子どもを傷つける事もあった。
「これはしつけなんてもんじゃない」妙に冷めた頭でそう思いながら、止まらない。そして感情の嵐が通りすぎたあと、自己嫌悪に陥るのだ。

こんなに腹が立つなんて私はどこかおかしいのだろうか。
そんなことを考えた。
子どもがかわいくないわけではなかった。
でも、逆上するたび「こんな子いらない!!」と思ったのも事実だ。


2 集団の中で

 怒鳴る生活は、息子が物心ついてから小学生に上がるまで、断続的に続いた。私の性格(物好きで比較的柔軟)が幸いしてか災いしてか、私は息子を投げ出さなかった。腹も立つが、落ち着いている時の息子は本当にかわいかった。息子は時々、大人がハッとする柔軟な発想で物事を見た。「面白い子だなあ」と、親の私も度々思った。

しかし息子が小学校に上がって、状況が少し変わってきた。
息子の苦手とする「集団行動」「一斉指導」を強いられる場面が多くなり、それができない息子、というものが前にも増して目立つようになった。「親の顔が見たい」と思っている人は多いだろうな、というプレッシャーも増した。

 息子は登校初日に、集団下校の列を抜け出した。
担任もまだ子どもたちの顔と名前を把握しきれておらず、「息子が帰っていない」という連絡を実家(学童保育のない地域なので、下校後は実家に寄せてもらっていた)から受けて、私は非常に慌てた。結局息子は保育園時代の友達宅に遊びに行っており、そちらのお宅からの電話でわかった。
 入学時の集団下校が終わった後も、息子はまっすぐに家に帰らないことが多かった。夕方まで捜して、近くの海岸でパンツ一枚になって遊んでいるのを見つけたこともある。息子一人なら心配しただけで済むのだが、誰かと一緒だと、そこの親にも心配をかけることになる。「お宅のお子さんと一緒だと、どこへ行くか、何をするか分からない。ウチの子まで巻き込まないで欲しい。」と言われてしまった。

 持ち物の管理や学校との連絡などにも支障が出るようになった。保育園では毎朝保護者と保育者が顔を合わせ、必要な連絡や持ち物の受け渡しを直接していたが、小学校に上がると、いきなりそれらはすべて子どもに任される。
「明日何を持っていくのか」「今日何を持ち帰らないといけないのか」また私から学校への連絡。それらのことがきちんと伝わらない。
プリントを出してもらっても、それを息子が持ち帰る事は少ない。連絡帳を書いても、担任に渡してくれない。
 持ち物についても、管理というものが全くできない。鉛筆は削って持たせたそばからなくして帰る。消しゴムも、定規も。(名前は持ち物全てに、でかでかと書いてある。)
 小学校に上がってすぐ、「ヤゴとり」という行事があった。水泳プールの清掃時に、冬の間プールで育っていたヤゴをみんなで採取するという行事だが、その時持たせたものを全て、息子は下校中になくして帰って来た。着替え一組と、バケツと、ヤゴの容器。ヤゴとり行事のあった日から3日たっても、それらのものを持って帰らないので、担任に連絡したら「持って学校を出るところを見ましたから、持ち帰ったものだと思っていました。」とのこと。息子と一緒に通学路を探してみたが、とうとう見つからなかった。

 授業参観に行って驚いた。息子の机の周辺には、本当に色々なものが落ちていた。鉛筆、消しゴム、紙くず、ノート、他の授業の教科書、その他諸々。回りの子どもが「ほらまた落とした」とか言いながら拾って息子の机に乗せるが、また違うものが机から落ちる。授業自体も息子は参加していなかった。他の子どもたちが書きとりをしている中、息子は一人、悠々と折り紙を折っていた。
参観が終わった後、息子の机を検めたら、プリントや給食ナプキンが圧縮されたものが大量に詰まっていた。
学校からの連絡も、私からの連絡も、息子の机の中に封印されていた。

 学校で固まることも度々あったらしく、担任から困っている旨の連絡を時々もらった。何が原因か、担任にもわからなかったらしい。私にもわからなかったのだが。

 そういうわけで、息子を多少でも矯正しようという私の行動に拍車がかかり、それは「どうしてこんなに(私が)努力しているのにできないの?」という怒りにつながっていった。「母子家庭の子どもはだらしがなくて当然」という台詞を言われたくはなかった。学校で起きていることに、自分の目も手も届かないのが歯痒くてならなかった。それでいて、「親がもう少ししっかり見てやれば良いのに。」などと言われているのかと思うと、腹立たしくてならなかった。
「連絡帳を渡してね!」「プリントは持って帰って来たの?」「鉛筆は?」「消しゴムは?」「給食袋は?」毎日のように息子を怒鳴りつけた。
先に、叩いたり蹴ったりするまでの間には「言い聞かせ」の段階があると書いたが、だんだん「どうせ言い聞かせても時間の無駄」とばかり、いきなり怒鳴る事も多くなってきた。
「どうしてできないの?」「何度同じことを言わせるの?」そう怒鳴る私と固まる息子。家の中の空気が悪くなるのを感じても、どうすることもできない。手も出る、足も出る。物も飛ぶ。

後に残るのは、しゃくりあげながら団子虫のように丸まる息子と、やりきれない自己嫌悪だけなのに、それがわかっているのに、止められなかった。
 

3 善意の人たち

 さて。そういう私たち親子を不憫だと思ったのか、一方的に怒鳴られる息子を不憫だと思ったのかは知らないが、善意であれこれと気にしてくださる方がいた。
 私が声を荒げようものなら「まあまあ、子どもなんてそんなもんよ。いちいち怒っていたら大変よ。(息子に)こんないい子なのにママ怒りんぼね~。」などと子どもをかばう。
それが、更に私を追い詰めた。

 例えば、ひとつ非常に記憶に残っている思い出がある。

私と息子の間には、自然にできた「お約束言葉」のようなものが存在した。
 息子を連れて外出した際、息子の興味がひかれる物があり、帰る時刻になっても帰りたがらないとしよう。私は「帰る時間だよ。」「もう帰らなくちゃ(理由)だよ。」などと数回促し、(大概ダメだ)数回目で「それじゃ、先に帰るよ。」と、息子を置いて立ち去る振りをする。すると息子は「イヤ~。一緒に帰る~。」と追いかけてくる。そこで口には出さないが「仲直り」が成立し、私たちは一緒に帰る。それが、私たちのその場面での「お約束」となっていた。当事者も気づいてはいなかったが。

 その日も、同じように息子は帰るのを渋り、私は数回「帰るよ」と促したあと、「じゃ、帰るからね。」と荷物を背負って立ち去ろうとした。

すると。

息子が私を追いかける行動をとる前に、善意の人が「可哀相じゃない!」と声を上げた。「子どもをこんなところに置いていくの?可哀相よ。」その場にいた善意の数名が口々に同じことを言い、息子をかばった。

 その時、私と息子は、きっかけを失ってしまった。

私は「帰ります。失礼しました。」と、息子の手を取り、強引に引き立てていった。そして、誰も見ていないところで息子を叩いた。
「あんたがグズグズしているせいで、あたしが悪者じゃない!!」
「あたしはいつだって悪者じゃない。こんなに頑張っているのにどうして悪者なのよ?毎日毎日イヤな思いをしているのは私の方なのにどうして悪者なんだよ!!」
 本来息子にぶつけるべきでない思いを、私はまだ幼い息子にぶつけた。


「世の中には子どもができずに悩んでいる人も多いのよ。こんなに元気な子どもがいるだけで幸せだと思わなくちゃ。」などということも度々言われた。
 「子どもを持てない苦しみ」と、「生まれた子どもに関する苦しみ」というのは、本来同じ土俵の上で語れる問題ではない。私には子どもを持てない苦しみは理解できないし、子どもを持てずに苦しんでいる方には、私の苦しみは理解できるまい。どちらが幸せでどちらが不幸かなどということは、決して比較できない。
 
 そして、私に本を贈ってくださった方がいた。
自分が読んで感動したので、「わざわざ」取り寄せて下さったのだそうだ。
表紙を見た瞬間、ある種の憤りを感じたが、「とっても良い本で、子育てのヒントがたくさん書いてあるのよ。是非読んで感想を聞かせて頂戴。」と、善意いっぱいの微笑で手渡された。
 読んだ。必死に読んだ。吐きそうになりながら読んだ。
 実はあまり内容は覚えていない。
ただ、実践できない事が多かった。「これ読んで感動できる人は本当に幸せだなあ。」と、心底羨ましかった。

それで、翌週「読んだ?どうだった?」と、満面の笑顔で尋ねられた。「難しすぎて、よく理解できませんでした。」と答えると、「あら、読みやすくて解りやすい本なのに?」と、言われた。
「何度も読むといいわよ」とも言われた。

甘い事を言っているのは百も承知で。
相手が善意であるのがわかればわかるほど、首の周りに巻かれた真綿が食いこむように苦しかった。
 善意の人の善意を素直に受け取る事ができない自分。
叫んで逃げ出したかったが、逃げる事もできなかった。
4 バーンアウト

息子のことは、誰にも相談しなかったわけではない。
折に触れ、知人や友人に色々と話しをしていた。
 ところが、困ったことに、息子のことで「私は困っている。腹が立ってどうしようもない。」という話をしているはずなのに、それがどういう訳か、聞いているほうには「面白い話」としてしか届かないのだ。

いや。客観的に振り返ると、確かに他人事としては面白い話だと思う。池に落ちた話、鉛筆を忘れないと約束した次の日に鉛筆だけを両手に握って帰ってきた話、電子レンジでおわんを溶かした話、墨汁にまみれて階段を降りてきた話、などなど。
「いやあ、面白いよ。liveの子ども面白すぎ。いいじゃん、毎日面白くて。」と、大概の話は結ばれる。
 それでなんとなく自分も面白い気分になるが、帰ってみると床に塩がぶちまけられていたりして、また私は怒鳴る。

何度言っても分からない息子に毎日怒鳴る。
傍から見れば面白い子をこんなに怒鳴るなんて、私はヘンじゃないのだろうか。

 ある夜、怒鳴って叩いて罵声を浴びせ、息を切らして息子を見たら、彼は頭をかばって丸まっていた姿勢から顔を上げ、ちょっと笑って「かーさん、オレ泣かなかったよ。」と言った。怒鳴られ、叩かれても泣かなかったから褒めてくれ、というのだ。
 また、何でもないときでも、私が少し視線を移したり表情を固くするだけで、息子は緊張する様子を見せた。叩くつもりではなく手を上に上げるだけで、頭をかばう。

ダメだ、ヤツは壊れはじめている。そう思ったが、どうにも止められない。

それと時を同じくして、彼の行動に、常識では理解できないものが見られるようになった。顕著なのは「食べ物隠し」である。掃除をしている時などに、食パンやゼリー、おにぎりの食べかけなどが、びっくりするようなところから見つかる。かびたり腐ったりしている事も少なくない。家だけではなく、学校でもしていた。給食のおかずを、ロッカーや掃除用具入れに隠しておくらしい。久しく誰の仕業か分からず、息子だと分かったのはずっと後になってからだったが。「何でそんな事するの?」という問いに息子は答えられない。答えないのがまた私を逆上させた。

 それと、反社会的行動を繰り返すようになった。(具体的に何をしたかは書きません。)不思議、というか気味が悪いと思ったのは、明らかに他人に迷惑をかけているのに、「悪い事をした」という反省の色がどうしても出ない事、そして、迷惑をかけてやろうというような表情が見られないことだった。(この状態の事を文章で表現するのは、とても難しいです。)息子の反社会的行動には必ず穴があり、用意周到さには欠けていた。

人に迷惑をかければ、分かり次第相手に謝りに行った。何人に頭を下げたか分からない。どんなに悪い事か、迷惑をかける事かも話して聞かせた。でも、息子は翌日には同じことを繰り返した。

私は息子の手を引いて、放課後の学校に駆け込んだ。
「先生、私はもうダメです。子どもをしつける自信がありません。」
担任は、その日のうちに校長と養護教諭に連絡を取り、翌日相談窓口を紹介された。

「お子さんは寂しいのじゃないかと思う。」
相談に行くと、そのように言われた。
「愛情不足というのは相対的なもので、親が構ってくれなくても満足できる子どももいれば、与えても与えても満足できない子どももいる。お子さんは超弩級の寂しがりで、与えても満足できないタイプなのではないだろうか。ここの機関では、その寂しさを埋める働きかけを手伝う事ができる。」
そう言われて、子ども対象のカウンセリングに息子を通わせた。

半年くらい通わせたが、あまり変化がなかった。

寂しさが息子を問題行動に走らせる原因なら、私が怒鳴ったり叩いたりしたからだろうか。

 けれど息子は変わらない。変わらないどころか、ますます落ち着きがなくなってきた。学年が進むにつれ、自主自立を求められる事が多くなるので目立ってきたのだ。回りの子どもは確実に成長しているのに、息子だけ低学年のままのようだった。

 そして去年(2003年)夏。
息子はとんでもない反社会行動を起こした。
経済的な損失も受けた。
真剣な表情で話し合う私と被害者の前で、息子は椅子をくるくる回し、紙切れを投げ、私に叩かれた。

担任は「つい1週間前にも問題を起こして、その時に校長先生にも怒られて、『もうしません』と言ったんですよ。それでこれだから、私もうショックで…」と言った。私はその担任に、
「ショックでしょ。私、それを1年生の時から繰り返してるんですよ。お分かりいただけますか?」と言った。言いながら笑ってしまった。

 その時丁度、長崎で中学生が4歳児を立体駐車場から突き落とすという事件が起こった。
そのニュースを受けて、ある大臣が「そんな子どもを育てた親は、市中引きまわしの上打ち首にした方が良い。」と発言した。

それを聞いた瞬間、私の中で、糸が1本切れた。

何もする気がなくなった。

 子どもが世の中に馴染んで生活できるように努力したら、子どもを殴っていた。
 子どもを殴ったら問題行動を起こすようになった。
 問題行動は愛情不足だといわれた。
 パワーを無制限に吸い取られる気がする。
 愛もパワーもお金も無制限に吸い取られて、それで問題を起こされたら、親は打ち首にならなくちゃいけないのか。(疑問形ではないです。そうか、という納得のニュアンスで読んでください。)

何もする気がなくなり、布団をかぶって暗い部屋にいた。
「おなかすいた」と息子が来ても「適当になんか食べなさい」と追い出した。


5 解決への道

私は文章を書くのが好きだ。
書くことは私にとって一種のセラピーになっていて、思い悩むことがあると、その事柄について書き散らす。読んでいただける人がいると客観的に書く助けになるのでありがたい。

 あの時も、自分の思いを書き、ネットの日記や個人的なメール、手紙などに乗せた。
 それを読んだある人が、こんなレスポンスを返してくれた。

「『みんなで子育ての責任を分かち合う』というのは大切だと思う。色んな人に関わってもらえば、たとえ自分が子どもに間違った関わり方をしても、取り返しのつかないことにはならないんじゃないだろうか。」

それを読んで、もう一度助けを求める気分になった。
いつまでもこうして落ちこんでいても仕方ない。ヘタな鉄砲も数うちゃ当たるだろう。
 丁度手元にあったパンフレットに、県警察本部の「少年問題相談窓口」というのが紹介されていたので、とりあえずそこに電話をかけた。
私の虐待というより、子どもの反社会行動を窓口にして。

 電話に出た職員は、一通り私の話を聞いた後、「近くの相談センターを紹介しますから、そこのA(個人名)という職員に連絡をとってみてください。」と仰った。
 相談センターに電話すると、Aさんは不在だったが、電話に出た職員が面接予約の手配をしてくれた。

 予約当日、息子を連れて相談センターに行った。Aさんは柔和そうな中年の女性で、息子を臨床心理士に預け、私の話を小一時間じっと聞いていた。
 話し終わるとAさんは
「よく自分で電話かけてきてくれましたね。」と切り出した。
「今までずっと一人で抱えて、疲れたでしょ?よく頑張りましたね。」

ひょっとしたら親の緊張をほぐすためにマニュアルにある対応なのかもしれないが、そう言われて私の緊張もほぐれた。
「よく頑張りましたね」なんて、今まで私に誰が言ってくれただろうか。それを、初対面の人にいきなり言われて、不覚にも泣きそうになった。

 Aさんは臨床心理士の部屋に行って戻ってくると、こう言った。
「私はいつも非行少年やその親御さんのお相手をしているんですけど、あなたのお子さんの反社会行動は非行じゃないと思います。指導ではなく、医療が必要なケースだと思うんです。」
 それで、と、小児精神科の連絡先を書いたメモを私にくれた。
「ここのTという医師に連絡を取ってみてください。…受診されたら、どうだったか連絡下さいね。」

 T医師の初診は結構予約待ちの人が多く、それから半月後、紹介された病院に行った。

「おはよう。僕はTといいます。君のお医者さんだよ。」
と、T医師は息子に笑顔で挨拶をした。柔和でユーモラスな感じの中年(若く見えるが初老に近いかもしれない)の男性だ。

T医師は息子に簡単な質問をいくつかして、文字や簡単な絵を描かせ、そのあと私の話を聞いた。息子がうろちょろして診察にならなくなったので、看護師にブロックを持って来させて、息子は診察室の隅でブロック遊びをしていた。

一通り話をした。
警察のAさんの紹介だと言うと、T医師は笑って「おお、Aさん。Aさんの専門は非行少年だからね。元気に働いているんだろうねぇ。」と仰った。警察と病院にパイプができているんだ。

「息子の話をすると、聞いた人はみんな『子どもなんてみんなそう』と言って、笑い話になっちゃうんですよ。」と、私が言うと、T医師の目が一瞬厳しくなり、「子どもなんてみんなそう?…この子を見てそう言うの?  どうしてこの子を笑い話にできるのかなあ。」と言った。

 変な話だが、それを聞いて、とても安心してしまったのだ。

「大丈夫よ」「心配ないよ」という言葉を、私も日常的に使う。異常かそうでないかだったら、異常でないと言われたほうが安心する。そういうものだと長らく思ってきたが、異常だと言われたほうが安心する場合もあるのだと、初めて知った。
 というか、異常だと思っているのは私だけではなかった、私がおかしくて息子が異常に見えたのではない、と思って安心したのだ。
次回までに、今までの成長記録(母子手帳や保育園のノート、小学校の通知表など)や、子どもが描いた絵、作文、現在の担任から学校での様子を聞いたものなどを集めてくるように言われ、初診は終わった。


6 君はいい子

2度目の小児精神科受診。
「蹴ったり噛み付いたり暴れたりはしない?」
 私が用意した通知表や担任からの手紙に、時折そんな質問を挟みながら目を通していたT医師は、読み終わると目を上げて、息子の方を向いて、
「君はいい子なんだね。」と言った。

君はいい子なんだね。

T医師のその言葉の意味を、私はそれからしばらくずっと考えていた。

 T医師は「知能検査などは追々するとして。…『ADHD』って聞いたことあるでしょ。この子はそれほど重症じゃないと思うんだけどね。   今日は薬を出します。リタリンという薬。飲んでみてください。多分ね、いろんな指示が通りやすくなると思うんだ。それでだいぶ楽になるはずだよ。
 薬は朝と昼に1錠ずつ。朝学校にいく前と、給食が終わったら飲んでください。学校で飲むぶんは、預かって管理してもらえるといいね。1錠飲むと、だいたい4時間から5時間効きます。お昼に飲んだら授業が終わるまで効いているはずだからね。眠れなくなることがあるから、夜の薬はありません。2週間分出しておくから、飲んでみて、様子を教えてください。」

ADHD。少し前から、そういう病気があるという話を聞いて、もしかしたら、と思っていた。
息子の担任に、「ADHDっていうのじゃないかと思うんですけど。」と言ってみたこともある。「…そこまで気にすることはないと思いますよ。」と言われて、その時は終わった。
他何人かに聞いたことがあるが、みんな似たような答えだった。
 本人も回りの子も幼かった頃は、みんな大なり小なり多動で注意散漫だったから、私も漠然と「成長すれば何とかなるだろう」と思っていたのだ。

 T医師のこの言葉を聞く少し前、図書館でADHDの本を借りて、じっくり読んでみた。「私たちの暮らしを、どこかからこっそり覗いて書いたんじゃないだろうか。」と思うくらい、本の中の実例と私たちは似ていた。
それで、息子はADHDってやつに違いない、そう思っていたので、T医師の言葉で「ああやっぱり。」と思ったのだ。

 「それとね。お母さん。」T医師は続けた。
「あなた、相当疲れているでしょ。次にここに来るまでに、あなたは大人の精神科に行きなさい。あなたんちの近くだったら、○駅のそばの△クリニックに、Aって医者がいるから。いい医者だよ。必ず行って、どうだったか報告してくださいね。」

 リタリンを薬局で受け取って、家に帰った。
その足で△クリニックに電話を入れ、A医師の診察予約を取って翌日クリニックに出かけた。
 A医師はT医師より少し若い男性で、T医師に言われて来たことを告げると、「T先生お元気でしたか?僕は大学の研究室であの人に相当鍛えられたんですよ。」と笑った。
 私は今までの経緯を話した。疲れてはいるけれど眠れてもいるし、食欲も普通にあるし、仕事にも行けている、と言うと、「あなた強いなあ。」とA医師は笑った。
「眠ったり食べたり、普通にできているようですから、『嫌なことがあると気分が塞ぐ』って、反応性うつ、っていうんですけど、それのちょっと程度のひどいものだと思うんです。そんなに心配は要りません。薬も出せますけど、どうでしょう?」
そうA医師は言ったが、私は「薬で助けていただくより、気がねなく色々なことを吐き出せる場所が欲しいです。」と答えた。「それじゃ、カウンセリングはどうですか?」「お願いしたいです。」
 ということで、私はそれから隔週でカウンセリングに通うことになった。私についたカウンセラーは歳の近い女性で、今でも色々聞いてもらいに通っている。

 
君はいい子なんだね。
T医師の言葉を何度も噛むようにしていて、ふと思いついた。
息子は困っていたんじゃないだろうか。
彼には彼にしか見えない世界が見えていて、みんなができる事が自分にはできない。やろうと思う気持ちもあって、うまくやりたい気持ちもあって、だけどうまくできない。失敗をなんとか繕おうとすると、なぜだかもっと怒られる。
 できない、とろい、馬鹿、と言われつづけているけれど、どうしてそう言われるのかも、どうしたら良いのかもよく分からない。
 彼には彼なりの「そうする理由」があってしたことも、頭ごなしに怒られる。理由を説明しようとしてもうまくできない。
 息子は暴力を振るわない。
 息子が人の悪口を言うのを、私は聞いたことがない。
(誰それくんが不愉快なことをした、という事は言うが、あいつは馬鹿だとか、そういう言い方はしない)

 私はそんな息子を毎日怒鳴り、叩いていた。
彼の言い分を理解せず、人並みに矯正するのに躍起になっていた。
彼は困って困って、困っていたんだろう。

君はいい子。
君はいい子だよ。


7 ありがとう。

2度目の診察の日の夕方、学校にリタリン服用について話をしに行った。担任の他、校長と養護教諭も同席した。学校では内服薬は預からないのが原則だけれど、この場合お断りはできないでしょう(息子自身が持ち歩くのは不安だし)と、学校で昼の薬を預かってもらえることになった。
 給食が終わったら、掃除までの時間に息子は保健室にリタリンを飲みに行く。養護教諭が出張などで不在の時は管理職が薬を渡す。他の子には特に細かいことは言わず、「体調の都合でね」程度に話をする…などのことが決まり、その翌日から服用が始まった。

「かーさん、あの薬イヤ。」初日が終わった息子はそう言った。
「体に力が入らないんだよ。だ~つ~りょ~く~って感じ。それと、なんか気持ち悪くて、給食あんまり食べられなかったんだ。」
そうか、でももうちょっと飲みつづけよう、そう言って翌日もリタリンを飲ませて送り出した。

数日たって、「どう?」と聞いたら「ん~。脱力はするけど、飲む。」と息子は言った。
時々気持ち悪くて吐いてしまったりしたそうだけれど、息子は自分の意思で飲み続けることを選んだ。

 1週間たって、10日たって。

 鉛筆が筆箱に入っていることが多くなった。(今まではカバンの中にバラバラに入っていて、なくなることも多かった。)プリントも持って帰ることが多くなった。(くしゃくしゃだけど)給食ナプキンを毎日持ち帰るようになった。
放課後遊びに出ても、防災チャイムが鳴ると帰って来るようになった。宿題は?と聞くと、「あ、そうだ。」と素直に取りかかるようになった。

初めは目に見えるような変化ではなかったけれど、確かに息子は変わってきていた。まるで冷たい風の中で少しずつ陽射しが暖かくなり、いつのまにか草が芽吹いて春に近づいているのに気づくように。
 気づいたら私は数日間、息子に怒鳴り声を浴びせていなかった。勿論手も上げていなかった。なぜなら、怒る必要も理由もなくなったから。
担任からも、「自分の席で授業を受けるようになりました。やっていることは自分の好きなことだけですが。でも、大きな進歩だと思います。」という報告があった。

 次の診察で、「どうでした?」とT医師に聞かれ、私は息子の変化を報告した。そして「あまり急な変化なので、これで良いのかと思ってしまいました。なんだか薬使って自分の都合のよいように子どもを操っているようで。」と付け加えた。
T医師は「でも、お母さん楽になったでしょ?」と言った。「そりゃあもう。」と答えると、「それで良いんです。それが目的と言ってもいいくらいです。お母さんが余裕を持っていられるのが、子どもには一番なんです。怒られたりけなされたりしないで生活できるのが。」
また、T医師はこんなことも言った。「リタリンは一生飲み続けなくても大丈夫だと思います。飲んでいるうちに、他の部分が成長して、苦手なところをカバーできるようになるんですよ。早い子は3ヶ月くらいでやめられることもあります。」
 そんな言葉を聞いて安心して、土日や冬休みを除いて息子にリタリンを飲ませ続けた。

リタリンは子どもによって効き方がずいぶん違うようだけれど、息子に関しては本当によく効いてくれた。
 運動会のダンスで、私は初めて息子の姿を捜した。
去年までは捜す必要がなかったのだ。ウロウロして他の事をしている子どもがいたら息子だったから。
やっと見つけた息子は、本当に上手に踊っていた。

その後の検査で、息子は知能の上では何も問題がないことがわかった。通知表が「もう少し」でいっぱいなのは、頭が悪いせいではなく、他に気を取られることが多いからだと説明された。
 家の中でいくつか気をつけるようになったこともある。「指示は1度ずつ出す」ということと、「大切なことは目に見える形にしておく」ということ。つい「寒いんだから靴下はいて来なさい。あ、ついでに2階にこれを持って行って。」などと言いたくなるが、そこを堪えて「靴下をはく」と「2階に物を運ぶ」を別々に1度ずつ指示する。何か大切なこと(学校の持ち物や予定など)は、紙に書いて持って帰り、見えるところに貼っておく。(これには担任の協力をあおいだ)
単純なことだが、これだけの工夫で、本当に生活のイライラが減った。

くだらないことで息子と笑い転げることが多くなった。
彼の失敗も、「次はどうしたら良いと思う?」などの言葉で受けとめられるようになってきた。たまに怒って声を荒くしても、すぐに収まるようになった。
生活するのが楽になった。私も学校も、多分息子自身も。
 
 薬を飲み始めて3ヶ月、T医師は「様子を見て、そろそろ薬を減らすことを考えていきましょうか。」と言った。
まだ実際に減らしてはいないのだけれど、何となく先の見通しがついてきたような気分になった。
大丈夫だ。多分もう大丈夫。確かに息子はちょっと変わっているけれど、生活していけるだろう。

ここまで来るのに、息子が生まれてから11年近くかかった。T医師と出会ったのが4ヶ月前、警察に電話をかけたのが5ヶ月前だから、それまでの時間の長さと比べると、非常にあっけなかった気がする。
全く、無知というのは恐ろしいものだと思う。
もう少し早く気づいていれば、行動を起こしていれば、息子を必要以上に傷つけずに済んだだろうし、自分も追い詰められなくて済んだだろうと思う。
そう思うと残念だけれど、「全てのものに定められた時がある」というものかもしれない。

 色々あったが、本当にたくさんの人の手を借りて、私と息子は平和な時間を取り戻した。関わってくれた全ての人に、ありがとうとお礼を言いたい。
 T医師、警察のAさん、A医師、カウンセラーさん。前担任と現担任、校長教頭、養護教諭。(実は息子は学校では全職員の知る人物であり、私が学校に出向くと、事務職員や給食調理員までもが息子に「あら、今度は何しでかしたの?あんまりお母さんに心配かけるんじゃないわよ。」などと、愛のこもった口調で話しかけてくれる。)
 息子の級友も、あの息子によく付き合ってくれたと思う。(T医師は何度も「本当にいじめに遭っていないの?ほんと?…いい子達だねえ。」と繰り返していた。実際いじめはなかったと息子も言っている。)これでもしいじめなどがあれば、問題は更に複雑にからまり、大変なことになっていただろうと思う。友達にも感謝する。
 
 そして。
私の試行錯誤に体を張って付き合ってくれた息子に、お礼を言いたい。
私は、幼い君ほど、私を受け入れて愛してくれた人を知らない。
「かーさんだいすき。」君は私がいくつの失敗を繰り返しても、そう言ってくれた。

8 蛇足

「虐待としつけはどこが違うのか?」という問いから始まって、一連の文章を書きました。

自分が息子にしてきたことは、一体なんだったのか?
テーマで問いかけられた「虐待としつけはどこが違うのか?」を考えていたら、書かずにいられませんでした。
色々なサイトでご意見を読みましたが上の問いには「よく分かりません・線引きできません」とコメントされているものが多いと思いました。
 実は私も、よく分かりません。

 線引きなさっている例もいくつか拝見しました。
「子どもの将来を思ってするのはしつけ、親のの感情に流されてするのは虐待」「愛があるのはしつけ、ないのが虐待」「どんな理由があれ、子どもを傷つける行為は虐待」「親の都合は関係ない。された子ども側から見て、理不尽に辛い仕打ちは虐待」

どれをとってみても、そうか、と頷ける気持ちと、「本当にそう言いきれるだろうか?」と思う気持ちとの両方を、私は感じました。

「私が息子にしてきたことは、一体なんだったのだろうか?」
 息子を心身共に傷つけていた事実は否定しません。私は親として、してはならないことを息子に繰り返しました。息子の悲しそうに背中を丸めた後姿を、私は多分一生忘れられません。
 虐待を容認しようという気持ちはありません。が。
私は息子を愛し、心配してもいました。それも本当です。
 なんとか息子を周りに適応させようと必死で、それが空回りすることに苛立ち、なぜ かわいいはずの息子がこんなにも腹の立つ存在なのだろうかと悩み、そして自己嫌悪に陥っていました。

 子どもの将来を思っていても、それがいけないと頭では分かっていても、子どもを殴っちゃう・怒鳴るのを止められない親だっているんだよ、という事を書きたかったのが、この一連の文章の出発点です。
 そして私の場合、本当に幸運だったと思うのですが、とりあえずその泥沼から抜けることができました。どうやって泥沼から抜け出したか、書いておけば、ひょっとしたら現在その泥沼で辛い思いをしている人の手助けにならんとも限らない、そう思いました。
 勿論私自身が違う泥沼に、またはまらないとも限らないのですが…。

 実は今日も、息子と一緒に出かけたショッピングセンターで、周りにいる人々がちょっと引いちゃうような剣幕で、小さな男の子を怒鳴りつけているお母さんがいました。
「お疲れなんだろうな。折角の休日、おチビちゃんにも楽しめるようにここに来たんだろうに、切ないことだよね。」と、私は心の中で思っていました。どういう行動をとったら不自然でなく、あの方の手助けになるか分からなかったからです。

 子どもを怒鳴ったり叩いたりする原因は、ひとつではないと思います。親の体調が悪い、急いでいる、他に気にかかることがある、さっき嫌な思いをしたばかり、子どもの機嫌が悪い…など、小さな小さな「間の悪さ」が積み重なっているのではないでしょうか。そしてその場だけを見て「なんてひどい親」とも、私は断定できません。そこに至るまで、親子にどんなやりとりがあったか(親はそれまで、耐え忍んで穏かにとりなしていたのかもしれない)分からないからです。
(当然のことですが、子どもの命に関わるような虐待の現場では、そんな悠長なことは言っていられないし、即座に立ち入って力ずくで止めさせることも必要でしょう。)

 「他人事にしておかない」というのが、これからの私の課題です。虐待なんて、する側もされる側も自分には関係ない、と思ってしまうのが一番恐ろしい。
人間は、「他人の苦しみは五万年だって我慢できる」(「そんなのたいしたことないよ」と明るく笑って言えちゃう。悪意なく)存在ですから。

 例えば電車の中で泣き止まない幼児に苛ついている親を見たときに、「私はチビちゃんの泣き声は気になりませんよ。お母さんも大変ですね。」という意思表示ができる大人、騒いでいるのが小学生だったら「うるさいです。やめてください。」と、自分としての注意ができる大人、そういう人になりたいと思います。


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